米沢らーめんとは

米沢らーめん®︎は製造規格が定められており、規格に沿って製造された中華麺だけに伍麺会のシールが貼付され販売することができます。

米沢らーめん®︎の製造規格

  • 強力粉主体の配合であること。
  • 強力粉の中でもタンパク値の高いパン用粉を原料粉の主要粉として使用すること。
  • 多加水製法であること。
  • 原料粉に対して40%以上の加水量(食塩など水溶化合物も含む)で捏ねること。
  • 手揉み縮れ製麺であること。
  • 1球ずつ手作業細麺に仕上げること。

※製造規格の一部と、細部の数値は非公開とさせていただきます。

米沢らーめん®︎は飽きのこないあっさりスープ

米沢らーめん®︎のスープは様々ございますが、基本は鶏ガラと煮干しで、毎日食べても飽きのこないあっさりとした後味のよいスープがよく合います。

米沢市内では「米沢らーめん®︎」を掲げる約100軒の食堂が、各店それぞれに鶏ガラと煮干しをベースとし、工夫を凝らしたその店ならではの味でお客様をおもてなし致しております。

米沢伍麺会の製麺所が丁寧に作った縮れ麺に、米沢独特の旨味のあるあっさりスープでいただくのが米沢らーめんです。

米沢らーめん®︎こだわりの麺

米沢らーめんのうまさの秘密は、水分をたっぷり含んだ麺で「多加水」と呼ばれ、小麦粉を捏ねるとき通常より多くの水を加え軟らかく練り上げます。

ストレートに切り出した麺を一つ一つ職人が「手揉み」し、そのまま2~3日熟成させると、独特の食感を持つ手揉み縮れ細麺の「米沢らーめん」ができあがります。

「米沢らーめん®︎」ならではの原料粉配合と着色料無添加により、少し黒みを帯び、「米沢の黒中華」として全国でも珍しい麺のひとつに数えられいます。

 

戦後の寵児

ラーメンは日本生まれといえば異論もありましょう。三省堂の『大辞林』には、「老麺・対麺。中国風の視水麺を用いた汁そばで、焼き豚・メンマなどを具に添えた醤油仕立てのものが普通。中華そば、志那そばともいう。」とあり、中国風とはいっていますが中国料理っとはいっていません。
あとでも述べますが、要するにラーメンは日本生まれの志那そばの変身で、米沢では「中華」の略称で通用します。視水とは鹹水・乾水・漢水とも書き、原料の小麦粉を練るときに加える炭酸カリウムなどを溶かした液のこと。「そば」にコシを与え風味・色つやを良くするために使われている媒体で、これがラーメンの根本要素になります。

チャルメラ懐かし

『米沢麺業史』のなかに、「中国人が自国の料理の応用として日本人向きに開発した」とあり、さらに「関東大震災(大正12年)の数年前、米沢の夜の町に屋台を引き、チャルメラを吹き鳴らしながらラーメン(当時は志那そば)を売る数人の中国人がいた(中略)横浜生まれのラーメンが各地に普及し始め、ついに米沢にも姿を見せた。予想以上の売れ行きで、彼らはやがて米沢で店を構えるようになった」と、米沢におけるラーメンの発祥に触れています。
やはりチャルメラの音と屋台車の風景が米沢ラーメンの原風景だったのです。大正末期には、上海軒・来々軒・アサヒ軒など志那そば屋が次々に店を開いたようです。いずれも米沢在住の中国人たちです。
日本人になじんだ「志那そば」は、戦後その呼称が禁じられ、「中華そば」で新生しますが、あの哀愁を帯びたチャルメラの音を覚えている人たちは、この米沢でもまだ多いはず。あるいは日本中でも・・・。
その中国人たちは、日中戦争開戦前後から帰国させられた、町から姿を消しましたが、彼らは米沢に技と味を残してくれたのです。このあたりのことについても『麺業史』は、「組合員の中にも中国人から習った者が店を開いたのは、昭和9年ごろ」といっています。
ほかに時代は重なるかも知れませんが、和・洋・中の料理を器用にこなす市内のカフェー「舞鶴」の人気コック(常松恒夫)が、ラーメンに挑戦、その技法を弟子たちに伝えたのが、米沢ラーメンの始めとする説も残っています。ただしさだかではありません。

麺メン両建て

米沢はもともと蕎麦が主流で、江戸時代から「饂飩株」や「平茶屋株」を持った天下御免蕎麦屋が多く、城下町の顔になっていました。戊辰戦争では、戦陣食に蕎麦を選び、蕎麦屋が車に道具一式を積んで出陣した記録もあるほどの業界でした。
ですから老舗も多く、最近上昇気流の乗って名声を高めている「山形そば」群の主要な一員でもあります。他と違うのは「米沢ラーメン」のブランドを併せ持っていることです。かつてnキャンペーンで、「めんメン味めぐり」というのがありました。「めん」は麺で、うどん・そば、「メン」はラーメンで、ほとんどの店が両建て営業で味を競っていたことの証です。それで、蕎麦は「きそば」、ラーメンは「中華」といって呼び分けてきたのです。
さて、米沢ラーメンの話に戻ります。米沢の接待食として人気のあった「中華」が、激しい戦争による経済統制の縛りから解放されて復活するのは昭和24年。しかし、明治初期で60数軒もあった蕎麦屋で、店を開けたのは16軒であったといいます。ちなみに今は組合員だけで50数軒。ラーメン専門、そば専門を含め市内の東西南北で繁盛しています。まさに今昔の感がありますが、戦後の営業自由化は、伝統ある米沢の麺業業界を奮起させたのはいうまでもありません。

和風だしに妙味

米沢ラーメンは、市民の接待食であることが理念になっています。ですから「具」に気を使います。冷やしラーメンにいたっては、みごとな表情と味でラーメンの傑作といえるレベルを示します。
その米沢ラーメンが、札幌や博多や近くは会津の喜多方ラーメンに伍して、堂々のブランド展開をするのは昭和50年代後半から?。伝統の蕎麦を強く志向してきた米沢の麺業界は、列島を揺さぶるラーメン旋風を受け、山形県の観光キャンペーン「紅花の山形路」のなかで米沢ラーメンを打ち出し、大々的な挑戦を始めたのです。
米沢ラーメンの特徴は、なんといっても米沢の蕎麦が培ってきた「和風だし」と、手揉みの「縮れ」です。粉も大半は強力粉で、準強力粉を混ぜてコシの強度を調整する方法をとる業者もいるとか。
「和風だし」はイワシの煮干しと鶏肉ガラをベースにしたさっぱり味系。近年はサバやトビウオなど、だし素材が多用になってきました。ほかにも札幌や九州系などトンコツだしやチャーシューぼボリュームで勝負といった、ラーメン派も存在感を見せています。そして米沢ラーメンは、醤油の按配が決めてとか。このあたりは、企業秘密でしょう。味噌ラーメンも米沢の個性をあらわしています。札幌の本場風味をトコトン分析、米沢流の味を作り出したと胸を張ります。

多彩な個性派

ともかく、米沢ラーメンは多様です。人間が百人百様であるように、米沢ラーメンも多様な個性派です。突き詰めれば、あなたを感動させる米沢ラーメンは、あなたが納得する味を出している店のラーメンということになります。つまり、どこの店のラーメンというより、どこの店もそれぞれ個性的な味であなたを待っていることになりましょうか。あなたをの舌であなたの米沢ラーメンを見つけてください。どうびんど(おしまい)。

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